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寄稿文

​山口、海洋、そして宇宙 横山哲朗/75期

 遠くにいても(いるからこそ)、山の緑が身近にある「正直やまぐち」は私の誇れる故郷である。
 「熱球」だけは今でもそらで歌える。甲子園大会予選一回戦に仲問と応援に行って、見事に燃え尽普て帰ってきたものでした。試合に負けても、連帯感と爽快感があった毎年の夏休み初日だった。「熱球」と聞いただけで、皆と肩を組んで歌ったあの青春の情熱が甦り、体中にアドレナリンが駆け巡るのである。
 思い出の多くは部活のバスケットボールである。中学から社会人まで続けたが、プレイヤーとして自立したのが高校生の頃だった。コーチ、監督主導の学校が多い中で、我々は手作りで、自分達で考え、練習と試合をする習慣ができたのがこの時期だった。キャプテンの林利晴と私の二人で如何に工夫して、相手高の監督の鼻を明かしてやろうかと考えていた。一学年下の西中、前田、勝田、藤井、等の名前が浮かぶが、彼等を含めてやっと5人のチームが組める状態だった。津田先生にはお子さんを連れて試合に来て頂いて感謝している。全くバスケットを知らない植木先生には、ボート部流のインターバルトレーニングを教わり、学校裏の道路を繰り返し走ったことが基礎体力作りに役立った。体育館は木造で狭く、床板が磨耗していた。木造の旧校舎の部室では暖を取るために壁板を剥がしてストープで燃やしたこともあった。当時の木造の建物は、今も残っている講堂と併せて何かノスタルジーを感じさせる。
 大学に進学した1969年は、70年安保の大学紛争がたけなわで、入学式は途中で過激派に乗っ取られた。京都河原町や祇園の大通りの真ん中をフランスデモで歩いたのは痛快であった。また、この年は、後に私の仕事に関係する、米国のアポロ11号が月面着陸を果たした年でもある。まだ授業の始まっていなかった7月のことだった。
 今、上空400キロに、日米欧加露の16カ国が協力して建設途上にある国際宇宙ステーションが飛んでいる。日の出前か日没後に上空を通過すれば肉眼で一等星並の輝きで見える。この同窓会報が出る8月頃には、3番目のチームがカルバートソン氏を船長として搭乗しているはずだ。彼が初飛行の後に束京の我々の設計事務所に立ち寄ったときのことを今でも憶えている。当時ペルシャ湾岸戦争で破壊され火災になったクウェートの油井群の黒い煙が地球を覆っていくのを宇宙から眺めて、「地球環境破壊を目の当たりにして、かけがえのない地球を何としても守らねば」とルーキーらしく熱っぼく語っていた。その後、90年代後半に仕事での付き合いが始まった。彼は1985年に海軍パイロットから宇宙飛行士になり、私はその翌年初めから宇宙ステーション設計チームに加わった。同時期に宇宙の世界に入っていた訳である。
 日本が製作している宇宙実験室「きぼう」は、今年10月に筑波宇宙センターに集結し総合試験が始まる。2004年頃に打ち上げて本体に取り付ける予定である。私は90年代前半まで設計に携わり、その後、運用利用準備に取り掛かり、今は、飛行管制チームを編成・育成している。国際協力計画の宿命だが、各国の様々な事情に振り回されながらの実に長いプロジェクトとなった。最も大きな変化は90年代前半のロシアの加入であった。「西側自由世界協力のシンボル」として80年代半ばに始まったこの計画は、東西冷戦終結を受けて、ロシア宇宙技術者の軍事的世界拡散防止の政治的思惑を底流に「真の全世界先進国協力のシンボル」に変容を遂げた。
 私は大学卒業後、エンジニアを目指して造船会社に就職し、高機能船舶の電気系基本設計などを担当した。船舶は大洋を航行するためのあらゆる機能を備えており、宇宙空問に浮かぶ宇宿船とは、機能面でよく似ている。潜水艦が良い例だ。また、外国船主との技術調整と交渉の経験は、各国宇宙機関との折衝に大変に役立った。当時の宇宙開発はロケットと人工衛星の技術導入による基本技術習得段階から、国内開発の自主独立路線に入ったところであった。宇宙開発事業団の宇宙ステーション計画への参加は「対等な国際協力関係」を背伸びして志向したものであった。私の民間企業での経験を重宝してくれたようである。
 振り返って見れば、「海洋(マリーン)のロマンを求めて12年、さらに宇宙(スペース)のロマンを追い続けて16年、気が付いたら50歳になっていた」といったところであろうか。
 今後は来る「きぼう」打上げを成功させ、その後10年にわたる利用の道筋をつけ、更に、その先の、必然的に大規模国際協力事業となる次期有人宇宙計画の立上げにも参加したいと願っている。
 
 
 
 
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