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寄稿文

​我が人生のルーツは三遷の体験から 岡本早智子/61期(旧姓・中川)

 昭和27年4月、東校舎が焼失した直後に私達は入学した。当時を振り返ると、先生方は多くの生徒を抱えて、さぞ御心労も多かったことと思われるが、生徒の私達は自由な雰囲気の中で伸び伸びと、あの時にしか出来なかった体験もしながら、とても有意義な三年間を過ごしたと思っている。
 同学年生は東西に分かれることなく、常に14クラスの大世帯が一緒に、一年時は旧山口大学教育学部寄宿舎で、二年時は東校舎跡に建設中の山口大学文理学部校舎を借りて、そして第三学年は現山高の位置にあった旧制山口高等学校校舎で過ごした。次々と変わる学習環境は、落ち着かないどころかあの年頃の好奇心と冒険心を駆り立てて、通常の場合の何倍もの楽しさを貰ったような気がする。それに、当時の山高の教育方針は、時代を先取りしたものになっていたと思う。今、男女混合名簿が言われているが、当時の山高は既にそうなっていた。背の低い私は前後の大きな男子に挟まれて、黒板が見えにくいこともあったが先生の指名を逃れることも出来た。また、授業は講座選択制で、チャイムに合わせて各自で教室移動をしたが、このシステムも、クラスの違う人達と広く知り合うことができ、講座によっては、男子の中にポツリと少人数の女子が座る場合もあったが、そんなことはあまり気にならない雰囲気なのがよかった。とに角、当時の校内には大学生並みの自由さがあり、先生方も生徒を一人前に扱って友人のように接してくださり、生徒は急に大人になったような気分で意気揚々と過ごしたものである。
 そんな中での友達との交流は勿論のこと、先生方との交流は忘れられない。英語のT先生(女性)には、数人のグループがお昼休みに先生を呼び出しては、校庭で英会話の勉強(遊び?)に付き合っていただいた。数学のF先生(男性)には、先生の生き様に興味をもち、友達と一緒に御自宅まで押しかけて人生哲学を聞かせていただいたこともある。また、体育のH先生(男性)のことも忘れられない。先生には、一年の体育の時間に、狭い校舎の中庭で、生まれて初めてのフォークダンス「コロブチカ」を教わった。面白く分かり易く指導してくださるのであるが、何分にも生徒は、異性と手をつないで踊るなど初めてのことで緊張してしまって…、でも、決して忘れられない大切な思い出となっている。●通学途中の思い出もある。私は仁保下郷から自転車で通学していたが、当時の交通事情は、今では想像できない程のんびりしたものであった。一人で退屈な帰り路には、漫画本や小説を片手に自転車を漕いだこともある。お地蔵様のお祭りの太鼓が聞こえると立ち寄り、お寿司やお餅を貰ってほおばりながら帰ったこともある。
 あれから50年、人生って、本当に予定外や計画外のことが起こり不思議である。私は県内の高校の理科教員として社会に出たが、当時、今日在る私を想像することはとても出来なかったであろう。
 小さい時から作文や習字が下手だったので大学は理系に進んだのに、教員生活の後半からは、文章を考えたり書いたりの仕事ばかりが多く、下手だからと断るわけにもいかず、最近では、数学や公式には全く縁遠くなってしまった。また、学校の教員になった筈が、社会教育にも首をつっこむことになり、現在の第二の職場は生涯学習のお手伝いなので、分野が次々と広がって、今では何を専門にして来たのか、自分でもわからなくなった。そう言えば、家庭では、小さい時から「お婿さんが要るね」と言われ続けて、婿取りをする筈だった私が、いつの間にか改姓してしまったのだから、これも何をか言わんやである。
 今まで、こんな道程を常に楽天的に雑草の如くたくましく生きて来られたのも、山高時代の体験のお陰だと思えて仕方がない。何か乗り越えなければいけない場面に遭遇すると不思議に、「人生、その気になれば何とかなるさ。」の度胸(無暴なまでの厚かましさかも知れないが)が出て来る。これはまさに、第61期生の山高魂ではなかろうか。
 
 
 
 
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