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寄稿文

​デタポンの物語/59期

 何時だったか、会報にバドミントン部の素晴らしい活濯が紙面を飾り、その文中に昔の事が不明である旨を読み、空白を埋める責任を感じていた所です。
 私がバ部に出会ったのは一年生が終わり二年生になる際、将来を嘱望されていた(?)軟庭を受験の為と考え退部したところ、ハードな練習の毎日にポツンと空白が出来、勉強にも身が入らずモヤモヤしている時に、同期の田中宏君〔元鴻城病院長〕と故八木省二郎君が入部を奨めてくれました。
 皆から羽子板遊びとか女性部員が多いのでと揶揄された事を思い出します。
 今は焼けて無くなった旧山中の講堂で羽がなくなったコックを大事に練習に励んだもので部費も少なく自腹で購入、結構高価でした。一学年上の津守幸介氏はライバルで、とうとう高校時代一度も勝てなく、一番の思い出は小郡小学校での試合で男子単を争い、その頃は自分たちで会場の設定から、審判も務め選手としても単・複・混合複を行い、単で第5試合目となれば足が動かずチャンスを逃した事は今でも忘れられません。
 第一回山口県バ選手権大会でしたが、[賞状]を見ると昭和27年6月22日、会長は野村幸祐氏、男子単で結局第3位でしたが高校の部で秋の仙台国体へ参加が決まりましたが、大学受験を控えて辞退したが、浪人をする結果になり参加しておけば良かったと後悔しました。
 同じ年の6月1日には、協会結成記念市民バ大会があり、男子単第2位(決勝で津守氏に敗退)となり、山下太郎山口市長・田中清人山口市バ協会長の名が見えます。
 今でも記憶の底にあるのが、高校の全日本大会です。部長の数学の佐久間先生が職員室の反対を押し切って参加することになり、晴れて天理市に向かいましたが、井戸の中の何とかで1セットを取れないままに敗退。会場も広いが天井の高さは抜群でした。テーマの意味は、「大会にデタが・ポンと負ける」即ち一回戦も勝てない事を表す言葉です。
 松江でも、西日本大会がありここでも見事にデタポンを味わいました。男子は田中・八木・私と3人に佐久間先生がおられ、女子は山本裕・豊福・山本静氏が年先輩、同期で市の大会で混合複に優勝したペアの岩篠、並山本綾氏の計8人、精鋭?の写真が残っています。
 この頃はまだ競技は普及してなく山高と山大教養部位で、後は実業団特に大洋漁業が力を入れており交換試合も行いましたが、忘れられないのは下関で試合終了後懇親会の席を作っていただき、今は貴重な鯨とふくに舌鼓をうちました。帰りには冷凍の鯨を箱戴き帰って鋸で挽いて分けました。「まるは」の全盛期でしたし我々には大ご馳走でした。
 卒業後は数年間夏に海水浴とか色々と集まっていましたが、長崎に行きその後は疎遠になりました。忘れられない青春の一齣です。
 ここに[飛翔]という山口県バ協会50年史があり、山口市や山口高校の歴史の沿革を読み、昔を思い出しましたが残念な事に一緒に練習した59期以降のメンバーが見当たらず練習が東高と西高と分かれていた為もあるかなと思いますが、淋しい限りでした。
 当時岐波の海水浴場での写真は総勢21名、男性12名女性9名で内2~3名は部外者でしたが、賑やかで男子では上・津守・玉木他故片岡・大内・久富・林等の顔が見えるし、また一枚は西校舎のグランドへ降りる階段で佐久間先生を中心に男子17名・女子15名の全員の写真があり、58期から60期生でした。古いセピア色?の写真ですが、ただ名前が完全に思い出せずそれだけが悩みの種です。
 駅通りに、(マルヤ)と言うスポーツ店があり主の愛称はハッチャン、良く溜まり話したりまた軟庭でガットを自分で張り替えていたので、ガットの張替えを手伝いそれでシャトルコックを購入したりしていましたし、コック代も有る時払いでした。
 一度病気で倒れられ回復された時にお会いして以来消息をきいていませんが…。
 何か思い出すままにキーを叩きましたが、年寄りになると、単なる繰言になりました。
 それにしてもバ部の活躍には眼を見張る思いです。今後の一層のご健闘を祈念しつつ。
 
追記
今月・6月30日〔土曜日〕十数年振りに山口市で、O.B会が予定され、17名前後が出席して懐旧を暖めました。
 
 
 
 
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